林殊と梅長蘇

宗主離開的第九天。

9月19日からのおよそ1ヶ月、毎日 インターネットの直播にかじりつかずにいられなかった『琅琊榜』が最終回を迎えた15日から今日で9日。

 

lyb54

未だにこのドラマが頭から離れることはなく、何をしていても頭の中の何分の一かがこの作品に占められている気がする今日この頃(笑)。

 

放送中は毎日 直播を見ながらTwitterであれこれ言い続けてたけど、今も油断すると『琅琊榜』ネタをつぶやいてるし(Twitterでのうだうだっぷり→  https://twitter.com/search?q=from%3Aririyeye%20琅琊榜&src=typd )

 

これまで見たドラマの中で少なくとも私にとっては最高の1作であることは確か。

しかもまだ原作を読んでいる途中。

ずっと積読状態だったものを放送が始まるしばらく前に読み始めたものの、毎日2話ずつ放送されるドラマの展開の早さにあっという間に追い抜かれ…。

途中、ズルして先に3巻の内容を斜め読みしたものの、今ようやく半分というところ。

原作を読み終えるまでは少なくともこの作品が心から離れることはないわけで、そう考えると、このまま年を越しそうな気がしてくる(汗)。

 

そんなこんなで、Twitterでうだうだ言うのも140文字という制限もあるし、久しぶりにこちらを使って原作とドラマの違いも含めて、思うことを書き連ねてみようかなと思い立った次第。

とはいえ、自分が頭の中で考え続けていることを整理するために書いているので、他の方の役には立ちそうもないですが。

 

まずはブログの書き方をまた忘れてるんですけど…。

1年以上も放置してたのね、私。

 

 

さて、気を取り直して。

以下ネタバレを含みますので、未見の方はどうぞご注意のほど。

 

 

 

ドラマの第10集。

靖王府の演武場で戚猛がミスをしたふりをして梅長蘇に飛刀を放つあの場面。

 

戚猛はただの悪ふざけのつもりだったんだろうし、靖王が敬意を表するこの人物を測ってみたいという気持ちもあったかもしれない。

武器をとって戦うことを生業としている彼らにとって、いくら頭が切れても武芸の心得のない書生風情、みたいな感覚もあっただろうし。

梅長蘇の護衛である飛流が、自分たちの主君である靖王の武芸を馬鹿にしたことも腹立たしかったはず。

なぜこうはっきりと飛流が靖王の腕前を馬鹿にしたかというと、原作ではこの二人、やりあったことがあるから。

ドラマでは変えられていたけれど、原作での靖王初登場は庭生の身を案じて寧國候府に乗り込んでくるというもので。

飛流がそんな彼をすんなり通すはずもなく、二人は剣を交える羽目になっていたので、靖王も飛流の技量をよくわかっているし、飛流もその点は同じ。

だからあの発言は飛流らしい悪気のない率直な意見だったんだけど、靖王の部下としては聞き捨てならない一言だったのは理解できる。

それが予想外の大事になって、戚猛自身が一番驚いたかもしれない。

 

ただ、彼の行為の何がそこまでいけないことだったのか、それが少しドラマではわかりにくかった気がする。

lyb1001

 

 

戚猛がこの場面で犯した罪は、「梅長蘇に飛刀を投げつけたこと」ではなく、「靖王のすぐ傍に立っていた梅長蘇」に飛刀を向けたこと。

自分の主君のいる方に向けて武器を放つということが問題で、梅長蘇が靖王景琰の威厳が自分に及ばないと彼を皮肉ったのはそこだったんだけど、ドラマだと(「以下犯上」とは言ってるけど)そこが伝わりきれたのかな、と。

 

 

lyb1002
そして、実は戚猛と同じことを若き日の林殊もやっていて、父親である林帅にこっぴどく罰せられ過去あり。
林殊が挑発した相手はドラマには登場しない人だけど、原作では林殊にとっては重要な人物だった聶真。

若くもなく、全く武人らしくもないこの人を林帥が赤焰軍の要職につけたことがどうしても納得いかない血気盛んな若き少將軍。

そんな彼が聶真の胆力を試そうとしてわざと自らの剣を折ってその欠片を聶真のいた方向に飛ばしたのだけれど、その時、聶真の傍には祁王が。

この時、林殊が罰せられた理由は聶真への行為ではなく、主君である祁王の方向に刃を飛ばしたこと。

 

その出来事、そしてその時に林殊が父である林帥から受けた訓責の内容を靖王も覚えている。

だから靖王も戚猛に対して重い罰を科したのよね。

 

確かに笑ってすむ話じゃない。

 

ついでにここでは祁王と赤焰軍との関係が非常に緊密であったこと、林帥がどれほど祁王を尊重していたか、そういうことも垣間見えるんだけど、それはちょっと置いといて…。

 

 

さて、ここからが本題で。

 

この印象的なシーンの中に透けて見えるのが「林殊」という人物の姿。

向こうっ気の強い、そして「強さ」や「戦えること」を重視していたかつての林殊がおぼろげに見えてくる。

原作でもドラマでも、林殊の人となりについての描写は決して多くない。

その僅かなエピソードを積み上げながら、読み手あるいは視聴者は梅長蘇の過去の姿である「林殊」という人物のイメージを作り上げていく。

父である林燮は最強を誇る赤焰軍の統帥、母親は梁帝の妹という家柄に加え、自らもその実力で赤羽營主將を担う若き少帥。

ずっと陽の当たるところを歩き続けてきたわけだし、将来も当然、光り輝くものになるはずだった。

自分の武芸にも強い自負を持っていただろうし、おそらく非常に怜悧な頭脳の持ち主だったであろうことは、今の梅長蘇を見れば想像できるところ。

今の梅長蘇が従兄でもある祁王「景禹哥哥」に寄せる敬愛の情を見ると、景琰共々、彼から並々ならぬ影響を受けていたことも想像できるし。

「一代賢王」祁王は、譽王をして今の靖王でさえ及ばないと言わしめる人物だったわけで(その優秀さ故に彼の存在を父である梁帝が怖れることになったわけだけど)、その彼の背中を見て育った林殊が愚かであろうはずもなく。

 

皇子である景琰とは親友であり、共に切磋琢磨しながら育ってきた彼。

梅嶺でのあの出来事がなければ、林殊は靖王に勝るとも劣らない武人になり、赤焰軍を率いて国のために戦い続けていただろうことは想像に難くない。

そして林殊はそんな自分自身に誰よりも強い誇りを感じていたはず。

そんな林殊の目に「梅長蘇」はどう映るのか。

 

戦場で国のために、守るべき人々のために命をかけることに最上の価値を置く靖王の目には、謀士は唾棄すべき存在に見えていただろうし、その点は林殊もきっと似たようなものだったはず。

ずっと光の中にいた「林殊」に対して、権謀術数を駆使し、陰で人を操ることに長けた「梅長蘇」。

どれだけ頭が切れても、我が身を守るために剣を持つことさえもできない「梅長蘇」はかつての林殊の目には簡単には受け入れ難い存在なのではないだろうか。

 

そんな今の自分に対する否定的な見方が靖王に自分が林殊だと知られたくないという思いに繋がっていくわけで。

原作では自分が林殊であることに景琰が気づいていることを知った時、梅長蘇は彼らしくもないほどに狼狽する。

肩を並べ、切磋琢磨しながら育った親友だからこそ、今の弱々しい自分を見られたくない、自分を見る彼の目の中に、自分に対するいたわりや哀しみを見たくない、そんな彼の気持ちは痛いほどよくわかる。

でも、それは同時に林殊が梅長蘇に向ける眼差しの中にも見えるものなのではないか。

 

 

最後に彼は「梅長蘇」として生きることじゃなく、「林殊」として死ぬことを選ぶ。

それは自分にとって幸せな結末なのだと。

梅長蘇が藺晨を説得しようとする(ドラマでは最終回の)あの場面がこの作品で一番感情が揺さぶられたところで、今思い返してもいろいろな感情が去就するのだけれど、一番強い感情は悔しさかもしれない。

 

 

mcs2

藺晨も悔しかったんじゃないだろうか。

藺晨にとって、彼はただただ「梅長蘇」であって「林殊」なんかじゃない。

飛流や黎綱、甄平たち江左盟の人間にとっても彼は「梅長蘇」であり、そんな彼をみんながあれほど慕い尊敬していたのに、それでも当の本人は最後まで梅長蘇である自分を完全には受容できなかった。

それがとても悔しくて。

林殊ではなく「梅長蘇」に「あなたはあなたであっていい」「あなたにあなたであって欲しい」と言いたくて仕方がなかった。

 

もちろん、梅嶺以降の13年、梅長蘇として過ごした時間は彼にとっても大切で愛おしい時間であっただろうし、そこでの様々な人との出会いは彼にとっても幸せなものであったと思う。

それでも彼は「林殊」に戻りたかった。

「林殊」という名前や立場を取り戻したかったんじゃない、「林殊」としての生き方を取り戻したかった。

なぜならそれは彼が本来手にしていたはずのもので、「梅長蘇」の人生では決して得られないものだから。

 

mcs3

 

19年(原作だと17年)の「林殊」としての人生、そして13年の「梅長蘇」としての人生。

どんな経験をしても、人間が根底から変わってしまうことはありえないことを思えば、彼が本来の自分である林殊の価値観で「梅長蘇」を測ることも当たり前のことなのかもしれない。

でも藺晨や江左盟のみんな同様に「梅長蘇」を愛した者としては、やっぱり悔しくて切なくて悲しくて、やりきれない。

それが未だに梅長蘇の存在が心の中に居座っている最大の原因な気がする。

 

 

さて、この状態、いつまで続くのでしょう…。

まったくもって罪なお人。

 

 

mcs1

 

 

最後に。

胡歌以外の梅長蘇はあり得ないと思えるほどのはまり役だった。

胡歌がこの役に巡り会えたことは、彼にとってとても幸せなことだったと思うけど、同時にドラマ化のタイミングでそこに胡歌がいてくれたことはこの本のファン&視聴者にとっても最高に幸せなことだったと思える。

 

まぁ、Twitterでは「王凱」だの「景琰」「靖王」だのばかり言ってますけど(^^;

(…だって、可愛いんだもの)。

 

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中